東京高等裁判所 昭和28年(う)1140号 判決
被告人 高橋一二
〔抄 録〕
被告人の論旨、弁護人甲の論旨第二点及び弁護人乙の論旨第一点について、各論旨は、いずれも原判決の事実誤認を主張し、被告人は原判示選挙において候補者伊能芳雄が選挙違反の容疑で逮捕された旨の情報を聞知し、当時の客観状勢から判断して来るべきものが来たので、それは真実であると信じ、それが虚偽であるとは全然考えないで行動したものであつて犯意はなかつた旨主張するのである。よつて按ずるに、凡そ犯意がありとなすためには犯罪を構成する事実即ち侵害行為をすることについての認識があれば少くとも通常健全な常識ある人にはかかる行為をすることが違法であること、即ち所謂違法の意識を有するのが普通であり又これを期待できるのであるから、それをもつて足りその他に特に違法の意識という別個の意識を必要とするものでないと解するのが相当であるけれども、当該、具体的事実が客観的には犯罪構成要件に該当し法律上許されないものであつても、行為者がその事実を法律上違法でない許されたものと誤信し、而もその誤信したことについて相当の理由があつてその者に過失の認むべきものがない場合には、何人に対しても当初から違法の意識を全然期待できない筋合であつてその行為者の意識に道義上非難すべき点を見出し難いのであるから、その者については犯意を阻却し罪を犯す意思のないものと解するのが相当である。今本件について考察するに、本件記録を精査し諸般の証拠を総合するときは、被告人が原判示選挙において原判示のように候補者伊能芳雄が選挙違反の容疑で逮捕されたかの如き趣旨の情報を聞知し同候補をして当選させない目的で原判示のように自ら又は柳田恒雄及び竹内幸作の両名に依頼して右逮捕の旨を連呼させたが、その当時において右伊能候補は逮捕されていなかつた事実は洵に明らかであつて、被告人が右言動をなすに当り右逮捕に関する事項が明らかに虚偽であることを積極的に意識していた事実は、記録上これを肯認するに足る確証は発見できないのである。従つて本件においては結局前に述べたような意味において被告人が前記逮捕が真実であると誤信したことについて相当の理由が存し、この点について被告人に責を負わすべき過失なく犯意を阻却するに足りるものがあるかどうかを検討しなければならない。
そこで原審第二回公判調書の証人柳田恒雄、同大沢一郎(後記認定に反する特に時間の点に関する供述記載は措信しない。)同竹内幸作の各供述記載、同第三回公判調書の証人佐藤思良、同黒羽根忠雄(後記認定に反する特に大沢一郎の逮捕はあり得ないといつたことを聞かなかつた旨の供述記載は措信しない)の各供述記載同第四回公判調書の証人菊地盛男、同小林秀一(前記黒羽根証人の供述記載と同趣旨の供述記載は措信しない。)の各供述記載甲第一、二号証の記載領置に係る朝日新聞(乙第一、二号証)の記載を総合し、当審において事実の取調として受命判事のした証人尋問調書中の証人黒羽根忠雄同小林秀一同斎藤千代子同竹内幸作同大沢一郎同柳田恒雄の各供述記載を参酌考察するときは、群馬県知事選挙が昭和二十七年八月二日施行され北野重雄、竹腰徳蔵、伊能芳雄の三名が立候補したのであるが、競争烈しく公明選挙のかけ声にもかかわらず相当の選挙違反が各所に発覚し被告人の居住する伊勢崎市においては、伊能派の違反が相当明らかであつて市会議員の半数以上がそのため取調を受け、期日の切迫と共に新聞紙上に伊能候補者自身の逮捕も免れないような趣旨の記事も出て殊に反対派である竹腰候補者を支持している被告人等の仲間の者の間ではこれを採り上げ伊能候補を逮捕せよとの声もさかんであつたところ、右選挙の前日頃には伊勢崎市のみならず各所で右伊能候補遂に逮捕さるとの情報が流れ出した。被告人の同志である医師黒羽根忠雄は、同月一日群馬県佐波郡豊受村の医師佐藤正二から竹腰派伊勢崎事務所の選挙運動員が伊能候補が遂に逮捕された旨発表している旨の通告を受け、その真偽をたしかめるため、同志の小林秀一を同夜八時頃呼びよせ、更に竹腰派伊勢崎地区の責任者である須永某に電話して確かめたところ、そのとおりの回答があつたが(午後八時四十分頃)更に前橋市の同派の本部に電話を申込みこれを確かめることにした。その頃伊勢崎市選挙管理委員会の委員長大沢一郎がその資格で黒羽根医師を訪れ同家の表に出ている壁新聞に不穏当の点がある由をもつて、その撤回方を交渉に来たので同医師は、日本共産党の伊勢崎地区委員会に相談する要ありとして前記小林をして更に被告人を呼び寄せた。その頃前記前橋への電話が通じ看護婦斎藤千代子がこれを受け黒羽根医師に伝え、同医師が応待し右逮捕の事実は間違いないから壁新聞はいけないが、街頭の連呼は差支えがないからやつてくれとの回答であつたので(午後九時三十分頃)この旨を前記大沢、小林被告人の面前で伝えた。
大沢は候補者が選挙期日前に逮捕されることはあり得ないと半信半疑の言をもらし、これを聞いた黒羽根はそうかといつた。そこで小林が大沢に時間を尋ねるとまだ十分位あると答えた。その日の選挙運動制限時間は午後十時だつたので被告人は未だ制限時間迄十分間位運動ができると解し、同家から飛び出し原判示のように柳田恒雄、竹内幸作に伊能候補逮捕の旨を受けこれを宣伝することを依頼し同人等にその旨を連呼させると共に、自らも「伊勢崎市選挙管理委員会の発表によれば伊能候補は選挙違反の容疑で前橋市警察署に逮捕された」と虚偽の事実を連呼した。しかし右伊能候補がその当時逮捕されていた事実はなく又群馬県選挙管理委員会なり伊勢崎市選挙管理委員会なりで右逮捕の事実又は右伊能候補の選挙違反の容疑の有無に関し何らの発表をしたこともないが被告人等においてはこの逮捕の有無に関し前記竹腰派選挙事務所に照会した以外他に問い合せたことはない事実を認め得るのである。これによつてみれば、伊能の選挙違反が発覚し候補者自身の逮捕も免れないと報道され、反対派においてはこれあることを期待している客観的な情勢の下において選挙を翌日に控えた前夜しかも選挙運動制限時間すれすれに得た情報を一刻も早く自己の支持する候補者の有利に利用しようとする気持は一応首肯されるのであるが選挙は公明公正でなければならない。選挙人をして自由にして妥当公正な判断の下に一票を投ぜしめなければ正しい民意の反映は期待できない。さればこそ選挙については種々の制限罰則を設けて正しい選挙が運営されることを期しているのであつて、公職選挙法第二百三十五条において虚偽の事項を公にして当選を得させないようにする行為を取り締つているのである。然るが故に選挙運動をする者はことの重大な事に思いを致しその行動は慎重でなければならない。殊に本件の如く選挙運動の最終期限がせまつている折に虚偽の事実を流布するにおいては、その該当候補者にとつては場合により致命的な打撃を及ぼす結果ともなることを考慮すればなお更然りである。この見地からすれば、以上に認定したように被告人等が単に自己の支持する竹腰派の関係者に連絡したのみでいわばその一方的の情報を間違いなしと判断し、殊に被告人において伊勢崎市選挙管理委員会においてかかる発表をしたことのないのにかかわらず、自らその発表なりして伊能候補の逮捕を宣伝しているが如きは軽卒の行動であつて仮に被告人自らにおいて伊能候補の逮捕を真実と信じていたとしてもその誤信について過失の責を負わなければならない言動であると解すべきである。いやしくも通常人の正常且つ健全な常識をもつておるものであれば、かかる場合その当該者である伊能派の関係者に照会すること又は関係係官憲に問い合せることは憚かるとしても、北野派なり公平な新聞等の報道機関に一応念のため照会することは当然考えつくことであり、又時間的にその余裕があることは前記認定のような黒羽根医師宅における経過からみても察せられるところである。然らば以上によつて被告人には伊能候補が逮捕されたと誤信したのについて相当の理由があるものと認められないし又その他これを認むべき事跡を窮うに足る証左はないから、被告人には犯意を阻却するに足る事由は存しないものといわねばならない。而して被告人が原判示所為をなすにつき犯意のあつたことは原判決援用の証拠によつてこれを認めることができるのであつて記録を精査してもこの点について事実誤認の廉あることを発見できないのである。尤も原判決中犯罪事実及びこれを認めた証拠を掲げた次に説明した被告人竝びに弁護人の主張を排斥する理由については、当裁判所が前段で述べたところと多少見解を異にするものの如くであるが結局において被告人の犯意を欠くとの主張を採用しないで犯意の存在を肯認しているのであるから、たとえこの認定の過程の説示に誤りがあるとしても、それは、判決に影響を及ぼすことの明らかな瑕疵とはいえない。以上の説示により各論旨はいずれも理由がない。
註 本件破棄は量刑不当。